Gone with the Wind (1939)
監督ヴィクター・フレミング
主演ヴィヴィアン・リー
クラーク・ゲーブル
大好きなサー・ローレンスつながりで、彼の二人目の妻そして一生涯のパートナーだったヴィヴィアン・リー主演の「風と共に去りぬ」を見る。これを見るのは2回目だけど、今見てみるとまた違った感想がわく。なんて女は強いのだろう、という女性賛歌がこの映画の根底に流れていることに気づく。主人公のスカーレット、そして親友のメラニーは性格こそ真逆だが、二人ともお互いにない強さを秘めている女性だ。スカーレットは気性の激しい実業家肌の女性で、現代で言うキャリアタイプ。メラニーは母性本能や慈悲深さを持った家庭の女性タイプだ。このあまりにも表面的には違うタイプの女性が、最終的にはずっとお互いを信頼する友人同士で居られるのは結局互いに女性らしいしなやかな強さをお互いの中に見て認め合っているからだ。スカーレットはメラニーを、弱々しく足手まといなバカ女と表面上では言っているけれど、最終的には彼女の持つ優しさに、すがっているのだ。そしてメラニー自身も、自分にない勇気と行動力を持つスカーレットに死ぬまで尊敬の念を抱き続けた。この二人の魅力的な女性の前には、どうしたって男性陣はかすんでしまう。アシュリーはいつまでもスカーレットにうだうだと希望を持たせ続け、しかしメラニーがいないと自分が何もできないことも知っている。レット・バトラーはアシュリーよりは根性のある男だと思ったが、結局はスカーレットが自分の思い通りにいかない女と知ると、出て行ってしまう。彼の言った、「僕の溺愛したボニー(娘)はまるで昔の君のようだった。純粋で明るく幸せで無知だった。」という一言がスカーレットにのしかかる。だからといって、どうすれば良かったのだ。戦争のさなかに乳飲み子と病気の母をつれて帰ってきたのは彼女だし、慣れない農作業に精を出し、妻を亡くしたショックで気が違ってしまった父の代わりに家を守り、税金を工面するために好きでもない男と結婚したのも彼女だ。いったい、そのときまわりの人間は何をしてくれたか。人はみな、自分に必要な時だけすがり、その後は何の恩義も感じず、ただ彼女の非道ぶりを表面から見て責めたてるだけだ。そんな彼女の思いが、スクリーン上のスカーレットから伝わってきた。そして、原作者のマーガレット・ミッチェルの思いも。
スクリーンの中でのスカーレット・オハラの生き方と、女優ヴィヴィアン・リーの生き方は、不思議なほどシンクロしていると言われる。ヴィヴィアンはローレンス・オリヴィエの子どもを2度流産し、私生活では躁鬱病に悩まされつづけた。しかし、夫のローレンスとは20年の結婚生活の末離婚したにもかかわらず、常に仕事上のパートナーであり、ヴィヴィアンの死後、ローレンスが語ったところによれば、お互いはまるで兄姉のような関係であったらしい。そこに夫婦の男女間を越えたライヴァルという意識があったということは想像に難くない。彼女もまた、名俳優と謳われた夫の陰に隠れることをいやがり、自分もまた彼に劣らない名声と評価を望んだのではないだろうか。ここに、南部の土地に自分自身の手で財産を築きあげたスカーレット・オハラの姿が完全に重なるのである。
昔は、スカーレットを子どものようにかわいがり、愛したレット・バトラーにあこがれを感じたものだが、今はそうは感じない。男というものは想像以上に弱く、それでいて女性を思い通りにコントロールしたがるものなのらしい。結婚や恋愛に男女というくくりは必要不可欠と思われているが、この際女と男という社会的な囲いを取り払って、一個の人間として対峙したら、もっと良い対等な関係が築けるのでは、と思うのは私だけだろうか。
最後に、私がおもしろいと思ったのは、この1939年に制作された映画を見て、「これでは日本は戦争に勝てるわけがない」という感想を残す人の多さだ。この70年、日本はアメリカに物質的な豊かさで打ち勝とうと必死で、経済成長に心血を注いできた。しかし、未だにアメリカはたしかに経済的には世界一豊かな国であるが、反面イラク戦争や環境問題、人種問題など、世界基準から劣っている点は山ほどあり、それを目の当たりにしている私たちの世代は、アメリカに追いつけ追い越せと頑張ってきた人たちとは、また違った感想を抱くのだと思う。この映画にも、南北戦争が印象的に描かれているが、アメリカは社会的混乱が起こるたびに戦争を行ってきた国である。こういった好戦的な気質が連綿とこの国の歴史、そして人々の血の中に流れているのだと思うと、やはり日本とはかけ離れた伝統や歴史、文化を持った国なのだなと再認識せざるを得ない。
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